「子どもの学力」と「社会に出てからの幸福な人生」はリンクしているのか問題について考えてみた。
子供の学力低下が叫ばれるようになり、いつの間にか「ゆとり教育は失敗に終わった」というのが国民のあいだのコンセンサスになってしまった感がある。
でも子供の学力の低下というのはそんなに深刻な問題なのだろうか?
僕は子供に関していえば「深刻な問題は他にもあるのではないだろうか?」と思っている。
僕には中学生と小学生の2人の子供がいるけど、勉強に関しては「まあ、適当にやれや!」というスタンスだ。
もちろん子供が頑張って良い成績をとったのなら、それはそれでよし。
でもたとえ悪い成績をとったからといって、それほど気にならない。
はっきり言って僕は子供の学力にはあまりに関心がない。
他に注目していることがたくさんあるからだ。
関連記事
スポンサーリンク
目次
人間の幸・不幸は学校の成績によって決まるわけではない
僕自身も勉強では落ちこぼれだった。
でも学力が低かったからといって幸せになれないじゃない。
人間の幸・不幸は学校の成績によって決まるわけではない
_____ここは声を大にして言いたい。
あまりにも誤解をしている人が多すぎる。
なかには「学歴が低ければ社会に出てから不幸になる」と本気で思い込んでいる人もいる。
それは大きな誤解だ!
勉強で落ちこぼれたからといって、その後の人生でも落ちこぼれるわけではない。
たとえ学校時代の成績が悪かったとしても、その後の人生でいくらでも挽回できる。
いくらでも幸せになれるし、いくらでもお金持ちにもなれる。
「何を呑気なことを言っているんだ!」と、いろんな人からお叱りを受けそうだが・・・
僕は不動産の世界で長年生きてきた。
そこで、さまざまな人間ドラマを見てきた。
不動産の仕事というのは、いろいろな人と接する機会のある非常におもしろい仕事だ。
僕は不動産の仕事ほど世の中のことを学べる仕事はないと思っている。
人間観察・社会勉強をするうえではこれ以上ない仕事だ!
僕はその不動産の仕事を通じて、さまざまな人と接するうちに、
小中学校時代の学力というものは、その後の人生にとってそれほど重要なことではない
_____という結論に達した。
関連記事
子供の学力低下問題はそんなに大騒ぎすることなのか?
僕が不動産会社の営業マンをしていたときに、奥さんに暴力を振るうDV夫がいるご家族を担当したことがあった。
しょっちゅう警察が呼ばれていた。
それはそれは悲惨な光景だった。
子供たちの泣き叫ぶ姿を僕は今でも憶えている・・・
そのご主人は一部上場企業に勤める転勤族の人で、その人は高学歴のエリートだった。
また部屋に火をつけて自殺未遂を起こし、これまた警察に逮捕された単身者の担当になったこともあった。
その人も高学歴のエリートだった。
いい大学を出て、一流企業に就職したが、まわりとうまくコミュニケーションが取れず、結局会社を辞めることになった。
その後しだいに部屋にひきこもるようになり、ついには自殺未遂まで引き起こした。
たぶん、自暴自棄になっていたのだろう・・・
僕は「学力なんてどうでもいい、学校時代の勉強なんて無意味だからやる必要がない」というようなことを言いたいわけではないのだ。
一生懸命勉強をすることは悪いことではないし、学力というものにアイデンティティーを発見する人がいてもちっとも構わない。
ただ、『学力だけがすべてではない』ということをわかってほしいだけなのだ。
「世界の国々に比べて日本の子供の学力が低下が著しい」とよく言われるけれど、僕にはどの結果を見ても「立派なものじゃないか!」という印象しか受けない。
すべての教科で1位にならなければ、「学力低下が深刻だ・・・」になってしまうの?
世界じゅうの国々のなかで日本の子どもたちの学力が最下位になったというのなら、それは問題だろう。
何か手立てを講じなければいけないかもしれない。
だけど、1位だったのが5位になったり、3位だったものが6位になったからといって、それがいったいどうしたというのだろう?
いつから日本人はこんなに自信のない国民になってしまったんだろう。
いつから日本人はこんなに余裕のない国民になってしまったんだろう。
もっと堂々としていればいいのだ!
中国や韓国は日本よりも厳しい学歴社会だ。
「だから日本も同じようにもっと子供たちに厳しくしなければならない」という意見もある。
でもそれはあまりにも短絡的すぎる。
何もかも事情の異なる国と国とを比較して、経済力で競い合うのではなく『子供の学力』で競い合って、いったいそれが何になるというのだろう?
幸福度ランキングで常に上位にくるブータンやデンマーク、あるいはスウェーデンやノルウェーといった北欧諸国で子供たちの学力低下が問題になっているという話は全然、耳にしない。
これらの国の何倍も何十倍も豊かな国である日本だけが大騒ぎしているのである。
その光景を僕に言わせれば「不思議」を通り越して、「異常」だ・・・
関連記事
スポンサーリンク
好奇心旺盛な子供ほどおもしろい人間になってゆく
僕は常々思う。
人間にとっていちばん重要なことは『いかに幸福な人生を送るか?』ということなのではないだろうか。
もちろん、学力と幸福が直結していると考える人がたくさんいることは承知している。
そのように考える人がたくさんいるからこそ学歴社会というものが形成されるのだろう。
でも僕は学力と幸福は直結していないと思っている。
一部の学力至上主義者・学力原理主義者たちが、「そうに違いない!」と思い込んでいるだけに過ぎないのではないだろうか。
子供達は別に勉強をするためにこの世に生まれてきたのではない。
良い成績を収めて、いい学校に入学するために日々生きているわけではない。
子供時代というのはもう二度と取り戻すことのできない貴重な時間だ。
勉強というのはその中の一部のファクターでしかない。
体を動かしたり、映画や本に触れたり、友達と話をしたり、恋をしたり、etc・・・
勉強以外にもしなければならないことはたくさんあるはずだ。
たとえ学校の成績には結びつかなくても、子どもがいろいろなものに興味を持つというのは非常に重要なことだ。
そうやって何にでも興味を持ち、好奇心旺盛な子ほどおもしろい人間に成長してゆく!
自分の好きな分野を見つけ、自分が進みたい道へ進むことができる人は幸福な人だ。
それなのに、やりたくものないものを無理やりやらされ、クソの役にも立たない無駄な知識を詰め込まれ、行きたくもない分野へ行かされる子供たちがたくさんいる・・・
子供の特性や、その子が興味を持っていることに全く関心を示さず、ただ単にテストの成績や偏差値といった『数字』だけを見て「もっと上に行け」「もっと上のレベルを目指せ」と子どもを追い詰める親もたくさんいる・・・
世の中を震撼させるようなとんでもない事件を引き起こした犯人が、異常なほどの教育ママに育てられた経験を持つ者が多いという話をご存じだろうか?
それは「たまたま偶然そうだった・・・」では片づけられない問題だと僕は思っている。
たとえ親の言うとおりに死に物狂いで勉強して、一流大学に入って、東証一部上場企業に勤めたとしても、必ずしもその後の幸せが保証されているわけではない。
オウム真理教に引き寄せられた人たちも日本の超一流大学を出た人たちばかりだった。
もしも勉強ができる人が物事を判断する能力にも長け、人生の選択を誤ることがないというのであれば、なぜあれほどまでに多くの秀才たちがオウム真理教に入信したのだろうか。
数字というのは大変に分かりやすい。
90点以上は◯で、それ以下は✖︎
_____といった具合に線引きがしやすい。
しかしながら、その人の個性や感性といったようなものは数字に置き換えられない問題だ。
それは客観的に判断することがむずかしく、「こうすれば正解!」というマニュアルもない。
だから多くの人はそういったよくわからないものをあまり重要視しない。
その代わりテストの成績や、模試の結果、偏差値、etc・・・このような数字で簡単に置き換えられるものを重要視する。
その方が手っ取り早いからだ。
その方が分かりやすいからだ。
______このようなすべてを数値化しようとする考えが子供たちを苦しめている。
そして、そのことが社会に出てから地獄を味わうことにつながってゆくのだ。
関連記事
僕の幸せは学力によってもたらされたものではない
もう一度繰り返すが、僕は学力はどうでもいいと言っているわけではない。
僕にも二人の子供がいるが、もしも彼らが頑張って学校で良い成績を収めたのであれば、それは素直に嬉しいし、褒めてあげたいと思う。
だけれども、もしも悪い成績を取って帰ってきたからと言って、彼らを叱責したりなんかはしない。
僕の子供たちは勉強だけが取り柄のつまらない人間ではないと思っているからだ!
勉強がたとえダメだったとしてもその他の分野でいくらでも充実し、幸せな人生をおくることができるはずだ。
学力というのはたくさんある選択肢の中の一つでしかないのだから・・・
たとえ勉強ができなくても、その他の分野で輝くことができればそれでいい。
そんなことよりも人生を楽しみ、自分が心の底からワクワクできるものを見つけ、イキイキと前向きに生きていくことの方が100万倍重要だ!
僕は自分の子供たちにはつまらない大人にだけはなってほしくないと思っている。
「学歴は高いかもしれないけれど、人間的には何の魅力もない」という大人にだけはなってほしくないと思っている。
僕のまわりにいる幸せそうな人々というのは、みんな人間的に魅力的な人たちだ。
みなさんのまわりにいる幸せそうな人々もおそらくそうだと思う。
そういう人間的な魅力というのは、学校の勉強では手に入れることができないものだ。
それはセンター試験の結果や、どんな大学を卒業したのか?ということよりもはるかに重要なことだ。
受験勉強の名のもとに子供たちの人間性を無視して、過酷な詰め込み教育をしようとしている昨今の動きに僕は警戒感を持っている。
勉強だけできるマニュアル人間が社会に出てから幸福になれるとはとても思えない。
これからはますます想像力や感受性、人を思いやる気持ち、コミュニケーション能力などが問われる時代になってゆくだろう。
そういったものは子供時代に培われるものであり、社会に出てから慌てて伸ばそうとしてもなかなかできるものではない。
はっきり言って、僕は勉強では落ちこぼれだった。
でも勉強以外のところでは決して落ちこぼれではなかったと思う。
僕は現在、不動産投資というものをやり、いくつかの物件を所有し、そこから家賃収入を得て家族を養っている。
毎日とても自由だし、とても充実している。
精神的にも、肉体的にも、そして金銭的にも満たされている。
こんなにハッピーな人生をおくれるなんて夢にも思っていなかった。
勉強ができないことで深く悩み、傷ついていた学校時代にタイムスリップして、あの頃の僕に教えてあげたいくらいだ。
この幸せは決して学力によってもたらされたものではない!
「じゃあ何によってもたらされたんだ?」と聞かれても、それを説明するのは大変ムズカシイ・・・
しかし、学力が僕を幸せにしたのではないということだけは確かなのだ。
銀行から融資を受ける際も、人と会ってビジネスの商談するときも、『僕の学力』や『僕の学校時代の成績』が問題になったことはただの一度もない。
そのことについて質問されたことも一度もない。
______おそらく、このことがすべての答えなのではないだろうか。
関連記事
スポンサーリンク
スポンサーリンク
↓ランキングに参加しています! よろしければ応援クリックお願いします🤗
![]() にほんブログ村 |
![]() 金融・投資ランキング |
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません