【学力よりも教養を!】 僕がもう一度『ゆとり教育』を復活させた方がいいと思っている理由について
僕は不動産投資というものをやってメシを食っている。
2010年に以前勤めていた会社を辞めて、専業大家さんになったのだ。
おかげさまで事業のほうは順調。
法人成りもし、ここ数年は黒字経営が続いている。
不動産投資は不労所得なので、僕は毎日自由気ままに暮らしている。
汗水垂らして朝から晩まで働かなくても、優秀な管理会社と優秀な物件が僕の代わりに稼いでくれる。
だからストレス・フリーだ!
こんな幸せが僕の人生に訪れるなんて、夢にも思っていなかった。
僕がこのような状態になるまでにはいくつかの幸運があった。
たくさんの人の支えや助けもあった。
すべてが僕ひとりの力で実現できたわけではない。
途中、リーマン・ショックや東日本大震災も起こった。
その金融パニックや経済危機のおかげで、僕はずいぶん安い値段で物件を取得することができた。
これもラッキーな出来事だった。
だけど、じゃあ、何もかもが運だけでここまで来たのか?というと、それは違うと思う。
いくらなんでも、運だけじゃ会社を黒字化にはできないだろう。
それじゃ、ギャンブルだ。
ギャンブルでは会社の経営はできない。
運だけでは家族は養えない。
いくら僕が北海道の三流大学しか出ていない無能人間だとしても、いくらなんでもその無能人間に銀行はナン億円も融資したりしないはずだ。
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『教育』が僕に教えてくれたこと
じゃあ、どうやって僕はこの自由と幸せを手に入れることができたのか?
それについて僕はずっと考えてきた。
だけど、いまだに答えは出ていない。
「こうすればうまくいく!」という具体的なものを何一つ明示できない。
それはとても感覚的なものなのだ。
『直感』と言ってもいいかもしれない。
ただ、そういったものがどこで育まれたのか?ということについては、はっきりと言える。
もったいぶらずに言おう。
それは『教育』だ!
教育が僕に自由にしてくれたのだ。
教育が僕を幸せにしてくれたのだ。
ただし僕がここで言ってる教育というのは、みなさんがイメージしているものとはまったく異なるものだ。
おそらくみなさんは『教育』という言葉を聞いて、勉強のできる・できない、学歴のある・なしをイメージしたはずだ。
でも僕の言ってる教育というのはそういうものではない!
先ほど僕は「三流大学しか出ていない」と書いた。
そう、僕は勉強ができなかったのだ。
勉強で落ちこぼれた人間に、『学力』を語る資格はない!
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ゆとり教育は失敗に終わったというのは本当なのか?
僕には二人の子供がいるが、子どもの教育問題は子を持つ親にとっては最大の関心事だろう。
多くのお父さんお母さんが子どもの教育のことで頭を悩ませている。
しかも今は時代の変革期にさしかかっている。
教育にも大きな時代の波が訪れようとしている。
そういう変化の激しい時代を賢く生き抜くために、僕たち子を持つ親は子供たちにどのようなことを教えてあげればいいのだろうか。
どのような教育をすれば子供たちが社会に出てからハッピーに生きてゆくことができるのだろうか。
今までと同じやり方が通用するのなら、最初から誰も苦労なんかしていない。
今までのやり方が通用しなくなってきたから、みんな頭を悩ませているのだ。
まずはその現実を受け入れなければいけない。
もう今までのやり方は通用しないのだ・・・
今までと同じやり方をしていてはいけないのだ・・・
_____と、認識を改めなければならない。
しかしながら、僕の目にはいまだに多くの親がそのような認識を持てず、旧態依然とした教育方針から抜け出せずにいるように見える。
だから、そこでミスマッチが起こる。
社会に出て傷つき、心を病む子どもや、家にひきこもって一歩も外へ出られなく子どもが出てくる。
またそれとは逆に攻撃的になり、暴力という形で怒りの矛先を他者に向ける子どもが出てくる。
僕はそれには『教育』という問題が深く影響していると思っている。
時代は刻一刻と変化し、あらゆることがどんどん陳腐化していっている。
それなのに、教育だけはなぜか未だに旧態依然としたままだ・・・
パソコンを学校に導入したからそれで新しい時代の変化に対応できると思ったら大間違いだ。
子供たちに電子機器を与えたからといって、その子たちみんながハッピーな人生を送れるというわけではない。
物事はそんなに単純な話じゃない。
ゆとり教育は完全に失敗に終わった・・・
これが国民のあいだのコンセンサスになってしまっている。
ゆとり教育はすっかり悪者扱いされ、嘲笑の対象にさえなっている。
しかし、ゆとり教育は本当に失敗だったのだろうか?
あの時、文部科学省がやろうとしたことは本当に間違っていたのだろうか?
僕は社会に出て傷ついたり、他者を傷つけたりしている若者を見て、
なぜあの時、文部科学省はゆとり教育をやめてしまったんだろう・・・?
なぜ方針を転換してしまったんだろう・・・?
_____と思うことがある。
あのままゆとり教育を存続させ、本当の意味でのリベラルアーツを子どもたちに学ばせていたら、こんなことにはならなかったのではないだろうか・・・と。
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https://sakamotoharuki.com/kudaranai-renchuu/
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子供たちを救うのは教養だ!
リベラルアーツとは『教養』というふうに訳されたりする。
教養とは何か?については議論が分かれるところだ。
しかしながらこれだけははっきりしている。
教養とは単なる丸暗記や、テストの点数なんかではない!ということだ。
そして、もう一つはっきりしていることがある。
日本は子どもたちに教養を身につけさせることよりも、テストでいかにいい点数を取るかの方を選択してしまった!ということだ。
ご存知のとおり、文部科学省は教育方針を転換した。
ゆとり教育を止めて、学力重視の方に舵を切ってしまった。
多くの国民はその選択を「正しいことだ!」と思っている。
つまり、日本は教養を捨てたのだ。
僕はそのことのツケをいつか必ず国民みんなで払わなければいけない日が来ると思っている。
なぜなら、教養とは希望そのものだからだ!
僕がなぜ自由と幸せを手に入れることができたのか?
その理由は(自分で言うのもヘンな話なのだが)僕が教養を身につけていたからだ!
その代わり、学力は全然ダメだったけれど・・・笑
「哲学なんて勉強したって何の意味もない」
「芸術を学んだところで就職が有利になるわけではない」
「文学なんてクソの役にも立たない」
「映画なんて観たって幸せになれない」
etc・・・
そういう国民の声に押されて、リベラルアーツ(教養)を身につけさせることを目的にスタートしたゆとり教育は完全に否定された。
でも僕はそれは間違いだったと思っている!
はっきり言って、ゆとり教育の理念そのものは正しかったと思っている。
文部科学省は誰が何と言おうと、あのままゆとり教育を存続させるべきだった。
僕はお役人のやることには滅多に賛成はしないのだけれど、これに限っては心の底から共感し、支持していた。
「子供たちを救うためにはリベラルアーツが必要だ!」と僕も常日頃から思っていた。
学校のお勉強ができる子どもよりも、教養を身につけた子どもの方がはるかにハッピーな人生を送ることができる!
______自分自身の経験から、僕はそう確信していたからだ。
北海道の三流大学を卒業した僕は地元の中小企業に就職した。
そして、サラリーマンとして社会でたっぷりと揉まれた。
あっちこっちに頭をぶつけ、いっぱい恥をかき、いっぱい悔しい想いをした。
ノルマを抱えた営業マンとして、朝から晩まで死にものぐるいで働いた。
365日のうち、まともに休みが取れたのは3日間ぐらいだったのではないだろうか。
お客さんから電話がかかってきて、正月に仕事をした記憶もある!
いろんな人と出会い、いろいろな人の人生を垣間見た。
トラブルや厄介事にもたくさん遭遇した。
その都度思い悩み、苦しんだ。
激しいめまいに襲われ、病院に行ったこともあった。
ストレスが原因で自律神経失調症になってしまったのだ・・・
人生、恋愛、友情、人間関係、お金、社会、経済、投資、精神的なこと、身体的なことを、etc・・・
20代30代の僕はありとあらゆることにぶつかり、いっぱい頭をかきむしった。
でも今にして思えば、
それらのことはすべて僕にとって『教育』だった!
僕が学校で学んだことは教育でも何でもなかった。
それは知識を詰め込み型の丸暗記でしかなかった。
そんなものは教育でも何でもない!
人は人生につまずき、何かに思い悩むことで初めて何かを学ぶ。
悩みに遭遇すると人は自然に本に手が伸びる。
映画をたくさん観たくなる。
人に会って相談したくなる。
そうやって答えを・解決策を発見しようともがくのだ。
その「もがき」や「あがき」こそが重要なのだ!
それこそが僕の言っている『教育』だ!
僕がこのように自由で幸せな生活を送ることができているのは、すべてあの時の七転八倒のおかげなのだ!
その中で学んだことは、僕にとってのかけがえのない財産となっている。
そこで僕は何を得たのか?
それについて具体的に述べることは非常にむずかしい・・・
それは「これこれこういうものでございます」と、言葉でなかなか説明できないものなのだ。
また、それは数字でも置き換えられるものでもない。
非常に曖昧としていて、つかみどころがなく、何だかよくわからないものなのだ。
しかしながら、その何だかよくわからないものがとても重要なことなのだ!
『人が生きるうえで最も重要なこと』と言ってもいいかもしれない。
あえて言うなら、
1. 洞察力
2. 識別眼
ということだろうか。
洞察力と識別眼があれば、人生の岐路に立ったときに非常に役に立つ。
この2つが研ぎ澄まされてさえいれば、正しい選択をしやすくなる。
人間関係
仕事
恋愛
ビジネス
投資
etc・・・
人生に訪れるいろいろな選択の場面で、正しい決断を下すようになる。
その一つ一つの正しい選択がやがてハッピーな人生へと繋がってゆく・・・
いい学校に行って、いい会社に行って、定年まで真面目に勤めていれば幸せな人生を送れる
_____そのような洗脳教育はもうやめにした方がいい。
もうそれが通用する幸福な時代はとっくに終わってしまったのだ。
これからは何が正解かわからない、一寸先は闇の時代に突入してゆくだろう。
それはいわばジャングルのなかに入ってゆくようなものだ。
ジャングルの中では常に危険と隣り合わせだ!
何らかのリスクを背負い、そこをサバイバルしていかなければならない。
どこにも安心できる場所なんてものはない・・・
でも、洞察力と識別眼さえあれば何も恐れることはない。
その2つがあればジャングルを通り抜け、自由と幸せに満ちた楽園までたどり着くことができるだろう。
今の小学生でも夜10時頃まで塾で勉強したりしている。
はっきり言って異常事態だと思う。
とても正気の沙汰とは思えない・・・
うちの2人の子どもは塾には通ってはいない。
だからはっきり言って塾に通っている子よりも学校の成績は悪いかもしれない 笑
でも、これだけは言える。
うちの2人の子供たちはきっと面白い人間になる!
僕がユニークな(はっきり言って風変わりな)パパだから面白い人間になるのではない。
彼ら自身が放つオーラみたいなものが非常に面白くて魅力的なのだ!
彼らは学校の勉強はできないかもしれない。
でも彼らを見ていると、明るい未来しか想像できない。
僕にはわかるのだ!
彼らはやがてその明るい未来に導かれてゆくだろう。
長男はプログラミングに興味を持っている。
だからもしかしたら将来はエンジニアになるのかもしれない。
次男は釣りや動物が大好きだ。
毎日「お父さん、釣りに行こう!」と誘われる。
「猫を買いたい!」と言い出したのも次男だし、その猫を誰よりも可愛がり、誰よりも積極的に世話するのも次男だ。
だからもしかしたら将来は生物学者や獣医さんになるのかもしれない。
僕は彼らにいま流行りの詰め込み型の教育をさせるつもりはサラサラない。
そんなくだらないもののために彼らの大切な時間を無駄にしてはいけないと思っている。
名門校を受験させようなんていう気もさらさらない。
彼らの可能性の芽を摘み取ってはいけない!
もしも彼らが僕と同じようにお金に興味を持ち、「投資をやりたい!」と言いはじめたのなら、それはそれでいい。
何と言っても僕は投資でメシを食っている人間なのだ。
普通のお父さんよりもいろいろと教えてあげることはできるはずだ。
僕は子どもたちにつまらない大人になって欲しくないと思っている。
自分の人生をイキイキと生きる魅力あふれる大人になってほしいと思っている。
だから僕は自分の子どもたちに『ゆとり教育』をさせてあげたいのだ!
本当は文部科学省がやってあげなきゃいけないことなのだが、やってくれないので仕方ない。
僕が自分でやるしかない。
その自前のゆとり教育のなかで、僕は子どもたちにたっぷりと教養を身につけさせてやりたいと思っている。
哲学や文学や音楽や映画や芸術などにいそしみ、自然の中で動植物とたわむれる・・・
僕が幸せな人生を送るために最も重要なものと位置付けている、洞察力や識別眼といったようなものはその『ゆとり教育』のから生まれ、育まれると僕は信じている!
ちょっとでも哲学をかじった人は、やがて「人間が生きることには意味はない」という究極の答えにたどり着く。
生きることに意味がないというのは決してネガティブなことではない。
「生きることに意味がある」と考えるからおかしくなるのだ!
そういうふうに考えるから、世の中に存在しているものすべてに『意味づけ』をしたくなってしまうのだ!
その結果、
ある人は「自分には生きている意味がない・・・」と考えるようになる。
そして心を病み、ひきこもり、(場合によっては)自殺にまで追い込まれてしまう・・・
ある人は「アイツには生きている意味がない・・・」と考えるようになる。
そして世間を騒がせるとんでもない事件を起こしたりしてしまう・・・
もしも彼らがゆとり教育を受けていたらどうなっていただろうか。
もしも彼らがたっぷりと教養を身につけていたらどうなっていただろうか。
オウム真理教に入信した若者の多くが日本でもトップクラスの大学出のエリートたちだったことを僕たちは忘れてはいけない。
ゆとり教育を受けていればこんなことにならなかったのに・・・
と僕は思っている。
姜尚中さんはこんな言葉を残しています。
私が問題だと思うのは「なぜ勉強しなくてはいけないのか?」という問いが出てくる背景です。
そういう問いが出てくるということは勉強する動機づけがない、ということの裏返しだからです。
では、なぜ勉強する動機がないのかといえば、結局、今の若い人たちは身体的な記憶が乏しいからではないかと思います。
疑似体験的なものやバーチャルなもので何かを学んできたかもしれない。
でも、その経験は切実でないから、意外とすぐに忘れてしまうのです。
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