【集団に自分を合わせるな!】 「みんなと一緒がいい」という感覚について僕が思うコト
精神科医の河合隼雄は『中空構造日本の深層』という本の中で、空気に流されやすい日本人のメンタリティーについて警鐘を鳴らしている。
山本七平という人も『「空気」の研究』という本の中で詳しくその辺りのことについて解説している。
両者とも同じようなことを言ってるのだ。
空気
村社会
同調圧力
右にならえ
向こう三軒両隣
出る杭は打たれる
寄らば大樹の陰
赤信号みんなで渡れば怖くない
etc・・・
言葉は違えど、日本人の中にはどこかそういった部分がある。
そして日本人のこうした「みんなと同じでいよう」という感覚はずっと昔からあったし、今も間違いなく存在している。
それは誰かに「こうやりなさい!」と強制されたものでもないのだ。
誰から言われたわけでもないのに、ごくごく自然に当たり前のこととしてとなりの人と一緒でいようとするのだ。
それは考えようによってはすごく恐ろしいことだと僕は思う。
集団心理の恐ろしさについては改めて説明する必要はないだろう。
ナチス・ドイツにしろ、戦前の日本にしろ、共産主義にしろ・・・みんな集団心理に狂い、破滅へと向かっていった。
考えてみれば、オウム真理教による地下鉄サリン事件だってそうだし、イスラム国によるテロだってそうかもしれない。
もっと身近な例でいうと、学校のいじめなんかも集団心理が根底にあると僕は思っている。
誰かに言われたわけではないのに、いつの間にかみんなと同じ考え方をし、みんなと同じ行動を取っているのだ。
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目次
日本人はなぜ個でいることよりも集団に属する方を選ぶのか
日本人は集団の中に身を置きたがる傾向が特に強い。
『個』として存在することに恐怖心をおぼえる。
みんなと一緒にいた方が安心する。
だからその集団が「右」と言えば右を向くし、「左」と言えば左を向く。
そこに個人としての考えや哲学は皆無だ。
これまでの日本はその考えでも何とかなった。
みんなと同じことを考え、みんなと同じように行動し、みんなと同じような人生を歩んでさえいれば、それだけで何とかなった。
だいぶ錆びついてはきたが、『日本的システム』はまだ機能していた。
だからそのシステムに乗っかってさえいれば、それだけである程度は幸福な人生を生きることができた。
それはとても幸福な時代だった。
そんな幸福な国は世界じゅう探したって見当たらない。
本人の能力や努力に関わらず、みんなと同じことをやってさえいれば幸せな人生を送れたなんて・・・・
そんな夢みたいなことが実現できていたのがこれまでの日本だったのだ!
ところが21世紀に入り、グローバル社会が到来した。
日本も否応なしにその時代の大きなうねりの中に引きずり込まれ、そんな呑気なことは言っていられない状況に追い込まれていった。
みんなと同じことを考え、同じような行動をしていたら、みんなと一緒にどんどん不幸になってしまう時代が到来したのである。
20世紀型の価値観のままでいたら、取り残されてしまうような時代がやってきてしまったのだ。
もう頼るべき『集団』はどこにもなくなってしまった。
国家も、企業も、地域も、コミュニティーも・・・・・ありとあらゆる集団が解体に向かわざる得ないことになってしまった。
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グローバル化は人々を孤独にさせる
唯一残された集団があるとすれば、それはネットの中だけということになってしまった。
Twitterにしろ、Instagramにしろ、facebookにしろ・・・
SNS上だけはまだ集団(あるいは集団らしきもの)を形成することができる唯一の場となっている。
どこか特定の「クラスタ」に属してさえいれば、とりあえず安心することができる。
そこでは同じような価値観、同じような考え、同じようなタイプの人間と接することができる。
だから、とりあえずの孤独感は癒すことができる。
『帰属意識』みたいなものも多少は充足できるだろう。
しかし、それはあくまでも仮想空間だけの話だ。
どこまでいっても、それはリアルなものではない。
どんなにソーシャルネットワーク上で充実したコミュニケーションややり取りができていたとしても、現実世界が充実していなかったらやっぱりマズい・・・
このことが人々を不安にさせる。
このことが人々を苛立たせる。
みんな孤独が嫌なのだ。
「ひとりぼっち」が怖いのだ。
でも僕はグローバル化が進む世界では、人々はみんな孤独にならざるを得ないと思っている。
なぜなら、グローバル化というのは突き詰めて考えれば、あらゆる集団や組織を解体してゆくものだからだ。
国家も、会社も、労働組合も・・・・グローバル化にとっては邪魔な存在なのだ。
ここ数年、世界じゅうで右傾化が進んでいるのもグローバル化への反発・反動と捉えることもできる。
すべてがフラット化し、地ならしが進んでゆくことに危機感をおぼえる人々が出てくるのはある意味、仕方のないことだ。
トランプ大統領が誕生したのも、イギリスがEUから離脱したのも、安倍自民党政権が相変わらず根強い人気を誇っているのもそのせいだ。
みんなグローバル化についていけていないのだ。
フラット化する世界に無意識のうちに抵抗しているのだ。
しかしながら、この流れはもう止められない・・・
今更、時間の針を元に戻すこともできない・・・
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僕が脱サラ起業する道を選んだ直接的な理由
個人的な話をしようと思う。
僕はひとりっ子として育ったせいもあるかもしれないが、子供の頃から一人でいることにそれほど違和感を感じないタイプの人間だった。
むしろ「一人っきりになりたい」「一人でいたい」という想いをどこかに持って生きてきた。
ところがご存知のとおり、日本社会でまったくの個として生きるのはかなり大変なことだった。
学校においても、社会に出てからも、ほとんどの人は何らかの集団に属して生きなければならなかった。
僕も大学を卒業したあと、サラリーマンになり、会社という組織に所属せざるを得なかった。
だけど僕の中には常に「一人っきりになりたい」「一人でいたい」という想いがあった。
僕が38歳のときに脱サラ起業したのも、そのような僕のパーソナリティーが影響していると思っている。
僕は集団というものが苦手だった。
組織というものが大嫌いだった。
だからサラリーマンの世界についていけず、結局ドロップアウトする道を選んだのだ。
集団の中の同調圧力みたいなものがたまらなく嫌だった。
あの空気感に息が詰まりそうだった。
そんなものに触れて生きるくらいなら孤独でいた方がはるかにマシだと僕は思った。
ひとりぼっちでいることの淋しさや苦しさよりも、ひとりぼっちでいることの気楽さや自由さの方が僕にとっては重要なことだった。
僕にとっては集団によって気楽さや自由さが脅かされ、押しつぶされることの方がよっぽど怖かった。
ところが多くの人はこのような考え方はしないみたいだ。
とにかく「ぼっち」を嫌い、孤独を恐れる。
ひとりぼっちでいるくらいなら、たくさんの人に囲まれていたいと思う。
多少のいざこざはあるかもしれないが、それでも孤独になることに比べたらまだマシだ。
多くの人はそんなふうに考えているように僕の目には映った。
それは僕とまるで正反対の考え方だった。
だから僕はこんな生き方を選んだのだと思う。
サラリーマンの世界からドロップアウトしたんだと思う。
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日本人はみんな「ツルんで」いる
考えてもみてほしい。
みなさんのまわりで脱サラ起業した人が何人いるだろう?
おそらく一人もいないのではないだろうか。
みんな何らかの形でどこかの会社なり官庁なりに勤め、そこから給料をもらっているのではないだろうか。
それだけこの国では商売人になる人が少ないということだ。
日本は特に自分で事業を興そうとする人間の数が少ない国として有名だ。
そんな風土の中でみんなと違う行動をするということがいかに大変なことか・・・
ちょっと想像してみてほしい。
和を以て尊しとなす
向こう三軒両隣
赤信号みんなで渡れば怖くない
etc・・・
日本人の多くは知らず知らずのうちにそのような感覚を身につけてしまっている。
だからみんなと同じ行動を取ることに違和感を感じない。
これは日本の古来からの伝統であり、文化なのだ。
いいじゃないか、いいじゃないか!
_____というわけだ。
極端な言い方をすれば、日本人はみんな「ツルんでいる」のだ。
疑似家族みたいなものを形成しているのだ。
「あいつが嫌い」「こいつがムカつく」といろいろ文句を言ってはいるが、根本のところではつながっていたいと思っているのだ。
僕が日々闘っているのはこのような日本独特の空気感や同調圧力のようなものだ。
This is 日本的価値観みたいなものだ!
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集団心理の負の側面について
日本人には集団で個人を追い詰める怖い側面がある。
自分たちのルールから逸脱したヤツは徹底的にやっつけても構わない。
自分たちの正義に疑問を呈するヤツは集団で追い詰めても構わない。
_____日本古来からある『村八分』の伝統は、現代でもきっちりと受け継がれている。
SNSなどを見れば、ある特定の集団がある特定の個人を寄ってたかって攻撃している場面を簡単に発見することができる・・・
河合隼雄は日本人のこういった側面を「中空構造」と言う言葉で表現した。
日本人には『一神教』という縛りがない。
だから「中身が空洞になっている」と河合隼雄は分析した。
芯となるものがない。
だから不安に陥りやすい。
アイデンティティー・クライシスになりやすい。
だから無意識のうちに集団や組織を求める。
その結果、その集団や組織の以降に沿うような形で自分をカスタマイズし、合わせてゆく・・・
その集団や組織がポジティブな方向へ動いているあいだはいい。
しかし、ひとたびネガティブな方向へ動きはじめたとき、その集団や組織に属している人たちもそれに同調し、一緒になってネガティブな方向へと向かってゆく。
日本人にはそういう怖い側面がある。
みなさんも心当たりがあるのではないだろうか。
学校でも、会社でも、ママ友のあいだでも、ご近所づきあいにおいても、etc・・・
日本独特の同調圧力のようなものを感じたことがあるのではないだろうか。
僕は子どもの頃から集団に馴染めないタイプの人間だった。
そのような僕の気質は大人になってからも変わることはなかった。
むしろ以前よりも強固になっていった。
だから僕は政治的なことだろうが、経済的なことだろうが、みんながワァーっと殺到するようなものとは自然に距離を置くような態度を取る。
そこにあるひとつの集団が形成されつつあるのを感じると、途端に違和感を感じてしまうのだ。
だから僕はずっと世間と折り合いがつかなかった。
学校でも、会社でも、どんな人間関係の中にいても・・・なぜか居心地が悪くなってしまうのだ。
僕の中には常にそのような「疎外感」のようなものがあった。
みんなが楽しくワイワイやっているのに、自分だけどうしてもそこに入っていけない・・・といった感じの疎外感だ。
だから必然的に僕はみんなと違う道を選択せざるを得なかった。
今にして思えば、僕が事業家になる道を選択したのは必然だったのだ。
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僕は「疎外感」のおかげで幸せになることができた
僕はそういう違和感や疎外感のようなものと無縁に生きてる人たちがうらやましくて仕方なかった。
何の疑問も感じず、ニコニコと輪の中へ溶け込んでいける人たちがうらやましくて仕方なかった。
「自分はあんなふうには生きられない・・・」
_____僕の中にはいつもそんなコンプレックスがあった。
だけど、僕はそのコンプレックスによって救われたのだ。
僕はサラリーマンにはなれないと思った。
一応は社会に出て、会社というものに所属してはみたけれど、やっぱりそこは居心地の悪い場所だった。
「こんなところに居てはダメだ!」と強く思った。
だから、サラリーマン以外の道を探さなければならなかった。
そのことが結果的に僕をこんな素敵な場所にまで連れてきてくれたのである。
僕はサラリーマン以外の生きる道として、『不動産投資』というものを発見した。
賃貸用不動産のオーナーになり、入居者から家賃収入を得る方法を見つけたのである。
アパートの大家さんになれば、どこかの会社に勤め、そこから給料をもらわなくても生きていける。
それは僕にとって人生最大の発見だった!
そして僕は2010年の12月に脱サラをし、起業した。
それ以来、複数の物件を所有し、その物件から家賃収入を得て僕は生活をしている。
ご存知のとおり、アパートの大家さんは自由業だ。
満員電車とも無縁だし、社内の醜悪な人間関係とも無縁だ。
くだらない上司にペコペコする必要もないし、自分の時間を会社に奪われることもない。
それは僕にとってこれ以上ないというくらい幸福なことだった。
でもこの幸せをたどっていけば、僕が抱えた「違和感」や「疎外感」にたどり着くのである。
もしも僕が社会に出て、サラリーマンとして働くことに何の違和感も感じないタイプの人間だったら、今のこのような人生は手に入れることができなかった。
自由ともストレス・フリーな生活とも無縁。
相変わらず不安でいっぱいになりながら、朝から晩までイライラしながら会社員をやっていたことだろう。
人生というのはどんなことが幸いするかわからないのである。
一見すると悪いコトであったとしても、めぐりめぐってそれが良いコトにつながることもある。
僕の人生の前半はずっとみんなが楽しそうにしているのを眺めてることに費やされた。
ワイワイ・ガヤガヤやってる素敵なパーティーに僕だけ参加できない・・・・というような疎外感を僕はずっと抱えて生きてきたのだ。
僕は運よくその疎外感や孤独感を癒す方法を発見することができた。
それでも、「オレはアウトサイダーなんだ」「みんなが所属しているサークルに参加できない人間だ」という感覚を常に持っている。
自由に生きるというのは、なかなか大変なことでもあるのだ。
サークルに所属している人たち(それは俗に「世間」と呼ばれていたりするのだが)から、白い目つきで見られることも引き受けなければならないのだ・・・・
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