【受験教育にモノ申す!】勉強させるより子どもたちには映画を観せた方がイイと僕が思う理由

2019年4月25日

僕は基本的に誰かと争ったりするコトがあまり好きではない。だから勉強とか受験とかに関しても全然好きになれなかったし、誰かと学力の順位を争ったりすること自体「まったくの無意味なことだ」と思ったりしていた。

志望校に合格しようがしまいが、そんなことはどうでもいい! 人生にはそんなコトよりもっと大切なことがあるはずだ!

僕は当時もそう思っていたし、今でもそう確信している。

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モラトリアムが僕を救ってくれた

僕はあまり勉強が出来る方ではなかった。だから僕はそれほど勉強しなくても入れる地元の大学に行った。そこは世間一般で言われるいわゆる『誰でも入れるような大学』だった。

その誰でも入れるような大学で、僕は4年間たっぷりとモラトリアムを満喫させてもらった。たくさん本を読み、たくさん映画を観て、たくさん音楽を聴いた。女の子と恋をして、友人と語り合い、いろんなアルバイトもした。おもしろそうなイベントがあれば積極的に参加したし、おもしろそうな人がいれば積極的に会いに行った。

 

そういうさまざまな経験や刺激が今日の『僕』という人間をつくったのだと確信している。そして(さらに言うならば)、僕が『不動産投資』というものを発見したのも、38歳のときに脱サラ起業することができたのも、この大学時代のモラトリアム期間が大きく影響を及ぼしていると僕は思っている。

 

僕はこのモラトリアムな時間の中で、人生を切り開く『鍵』のようなものを発見していたのだ。知らず知らずのうちに・・・それは具体的に「これこれこういうものでございます」と人に説明できるようなものではない。

でもそれはすごく大事なものであるような気がする。  

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本や映画の世界にのめり込んで良かったと思うこと

それは僕が勉強以外のことに興味を示さないタイプの人間だったら、絶対に手に入れることができなかったものだった。もしもそれを手に入れることができなかったならば、僕の人生は今とは違ったものになっていたはずだ・・・

 

いまは受験シーズンの真っ只中(これを書いてるのは2018年2月2日だ)。そんな時期にこんなことを書くのはあまり良いことでないのかもしれない。「受験生に申し訳ないな・・・」という気持ちも少なからずある。でも勉強だけが人生のすべてじゃない!というのは歴然たる事実なのだ。

そしてその事実を若い人たちにひた隠しにして教えないのは、それはそれで残酷なことなのではないだろうか?と僕は考えている。学生のあいだはそれはピンと来ないことかもしれない。しかし社会に出てみれば、それは嫌というほど痛感することだ。

 

僕は大学生の頃、本や映画、音楽の世界にかなりのめり込んでいた。とにかくそういう世界に触れていたかった。それは現実とは違う世界だった。そういう現実とは違う『時間空間』を日常生活の中に取り入れることは、当時の僕にとって何よりも重要なことだった。

それは単純に純粋な「楽しみ」であり、大いなる「興奮」でもあった。そういう世界に触れているだけで幸せだった。本や映画、音楽の世界に触れてさえいれば、現実世界のさまざまな嫌なことを忘れることができた。将来に対する不安のようなものから逃れることができた。

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学校よりも3分間のレコードから多くのことを学んだ

僕はそういう『避難場所』のようなものが自分の日常生活の中にあったことは、「非常に良いことであった!」と思っている。もしもそういうものがなかったら、僕は現実世界に押しつぶされてしまっていたかもしれない。

僕は勉強もできなかったし、部活動で活躍できたわけでもない。どっちかって言うと『これといった特徴のないパッとしないヤツ』だった。本や映画、音楽などにハマることがなかったら、もしかしたら僕の人生は本当に悲惨なことになっていたかもしれない。

 

どこにも逃げ場がなくて、にっちもさっちもいかないことになっていたかもしれない。ブルース・スプリングスティーンの歌にこういう歌詞がある

オレは学校よりも、3分間のレコードから多くのことを学んだ

まさにこれだ!

 

僕が夢中になっていたことは、まわりの大人たちにとっては「役に立たないこと」「無駄なこと」に見えたことだろう。でも僕にとっては全然無駄なことではなかった。

僕は38歳のときに脱サラ起業して、投資・ビジネスの世界に足を踏み入れた。そこは自分の才覚だけでやっていかなければならない世界だった。誰も助けてくれない・・・。自分しか頼りになる人はいない・・・

そういう世界で生きてゆくためには、やっぱり世の中のことを知っておかなければならないのだ。

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社会に出たら学歴は関係なくなる

本や映画、音楽に触れることによって僕の世界を眺めるときの視野は確実に広がった。それまで自分がいかに狭い視野でしか世界を見ていなかったかも痛感した。

スピルバーグの映画をいくら観たって、ビートルズの曲をいくら聴いたって、それが目の前の学業成績に何か影響を及ぼすわけではない。だからそういったものは教育の現場ではほとんど評価されることはない。

 

現在の教育制度の中で評価される学びとは『テストでいい点数を取るための学び』であり、『いい学校に入学するための学び』であった。そこで行われていた教育は簡単な言葉で言ってしまえば、『受験教育』であった!

そして(実に嘆かわしいことなのだが)、文部科学省も、学校の先生も、親たちも・・・教育に関わるほとんどすべての人たちがそういった『学力原理主義的な考え方=(受験教育)』に賛同していた。僕が学校に通っていた時もそういう風潮は確実に存在していた。だけど今はむしろあの頃よりも強まっているような気さえする・・・

 

だけど(これは社会人になれば誰しもが痛感することになるのだが)、肝心要の社会の方は学力原理主義ではやっていけないようになっているのだ。

まして僕が選んだような『投資』や『ビジネス』の世界では、勉強ができたかどうか?」なんてことは一切関係なくなる。

 

僕は仕事柄、何回も銀行の融資係の人と接してきたが、これまで僕の学力について聞かれたことはただの一度もない。履歴書を提出したこともなければ、「大学の卒業証明書を持ってきてください」と言われたこともない。仮に僕が中学しか出ていなかったとしても、それが融資の審査に影響を及ぼすことはなかったはずだ。

つまり僕は何を言いたいのか? 『学校時代に勉強ができたかどうかなんてことは、社会では瑣末なことでしかない』ということだ。  

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子供達は無防備なまま社会に放り込まれる

社会ではもっと重要なことがある。勉強ができたかどうかなんてことよりももっと問われることがある! 文部科学省のお役人さんたちも、学校の先生も、親も、塾の講師たちも・・・本当はそのことを知ってるはずなのだ。本当はそのことに気づいているはずなのだ。

それなのに子どもたちにそのことを教えず、放置しているのだ。それはものすごく罪深いことだと僕は思う! 僕は日本の教育制度の最大の問題がコレだと思っている。

 

一生懸命勉強するのはいいことだ。いい大学に入るのもいい。いい会社に就職するのもいい。その会社のために真面目に働くのもいいだろう。しかし、それをやったからといって必ずしも幸せな人生を送れるわけではないのだ。

それなのに大人たちは「それをやれば幸せになれるよ」と子どもたちに教えているのだ。真っ赤な嘘を教えているのだ!

 

子どもたちは何も教えられないまま無防備な状態で社会に放り込まれている。毎年毎年、何万人という数の若者たちが・・・これは大きな問題なのではないだろうか。

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子供たちをもっと音楽や映画に触れさせよう!

学力(あるいはその学力をつかさどる知識といったようなもの)は後からいくらでも取り戻せる。さらにこれからは人工知能、ロボット技術がますます発展してゆく世界に突入してゆく。そういった世界において、今までのような知識詰め込み型の教育で幸せな人生を送れるとは僕は到底思えない。

しかし、今も昔も教育の現場ではこのような考え方のもとに教育はなされていない。

 

僕は学校というものと折り合いがつかなかった。僕の人生が輝き出したのは『学校』という呪縛から解放されてからのことだ。きっと今でも僕が当時抱えていたような葛藤を抱えている少年・少女たちが日本中にたくさんいることだろう。そのことを思うと、胸が苦しくなってくる・・・

 

彼ら彼女らは今日も本や映画、音楽の世界にのめり込み、そのことをまわりの大人たちから非難され、肩身の狭い想いをしていることだろう。そんな少年・少女たちに言いたい。

君たちは間違っていない!  

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