自分の進みたい道がわからないときは「ワクワクすること」を基準に選んだ方がいい理由
自分の進みたい道がわからない、正しいことをやってるつもりなのに、なかなか人生がうまくいかないなと悩んでいませんか?
本記事ではそんな人のために正しいことを追い求める生き方とは違う方法について解説しています。

ハルキ
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目次
自分の進みたい道がわからないときはワクワクする方を選ぼう
仕事をやめたい → 辞めたらええやん
あの人と別れたい → 別れたらええやん
そのあとに「でも」とか「そうは言っても」は言いっこなし。
それを言った瞬間、濁る。
もう答えは出てる。
自分が進みたい道がわからなくなったときは、ワクワクする方を選ぶようにしよう。
そうすればきっと物事はいい方向へ展開してゆく。
チャンスを逃す人はこの選択ができない人が多い。
ワクワクすることよりも、正しい方を選んでしまう。
その結果、言ってること・やってることは何も間違っておらず、正しいのだけれど、なぜかうまくいかない、、、、という不思議な現象が起こる。
心の奥底から湧き上がってきた、その想い
いちばん最初の純度100%の、その想い

ハルキ
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「正しいこと」はあまり人生の役に立たない
今、多くの人が不安を抱えて生きていると思う。
そういう不安が渦巻くご時世になると、みんな自信を失い、『正解』を求めたがっている。
こういう時がいちばん危ない!
とにかく正しいこと(しかも100%正しいこと)を求めたがる人々。
そして、そのニーズに応えるかのように正しいことしか言わない人が出現してくるのがこういったご時世だ。
みんなさんのまわりにもいっぱいいるだろう。
正しいことしか言おうとしないヤツ・・・
僕のまわりにもいっぱいいる。
友人にもいるし、親戚にもいる。
こういう正しいことしか言わないヤツというのはありとあらゆる人間関係の中にいるものだ。
ネット空間の中にもたくさんいる。
でも、そういった正しいことしか言わない人が言う『正しいこと』って、本当に人生の役に立つのだろうか。
僕は実際のところはあまり役に立たないのではないかと思っている。
もちろん法律に触れるようなことや公序良俗に反するようなことはダメだ。

ハルキ
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「ジャスティス・ハラスメント」には十分気をつけよう
遅刻してはいけない
勉強しなければいけない
タバコを吸ってはいけない
ダイエットをしなくてはいけない
真面目に働かなくてはいけない
結婚しなくてはならない
家を建てなければならない
老後のために貯金をしなければならない
etc・・・
そんなこといちいち言われなくても、最初からわかっていることだ!
それなのに、その「正解」を嬉々として連呼する人たちがいる。
それは誰が聞いても、どこから聞いても正しいことではあるのだがなぜかスッキリしない。
言ってることは反論もできないくらい正しいことなのだが、どこか釈然としないものがある。
そういうモヤモヤが今、社会に渦巻いているように僕の目には見える。
最近では『ジャスティス・ハラスメント』なんて言葉もあるくらいだ。
ジャスティス(=正義)を振りかざし、問答無用になんでもかんでも切り捨ててゆく空気。
僕はそれに違和感を感じることがある。
そのジャスティス・ハラスメントが横行しすぎると、お互いがお互いを監視し合うような息苦しい世の中になる。
誰もかれもがネガティヴ・チェックをするようになる。
ちょっとでも誰かが自分たちのルールに抵触しようものなら、寄ってたかって村八分にするような閉塞的な社会がやってくる。
僕は日本人にはそういった側面がもともと備わっていると思っている。

ハルキ
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正しいことをしていれば結果が出るとは限らない
サッカーの試合で選手交代をする際に「ゴールを決めろ!」と言うこと。
これは誠に正しいことだ。
しかし、その正しい忠告に従って行動したからと言って、その選手が実際にゴールを決めるかどうかはまた別問題だ。
ゴールを決めるためには本人の才能もさることながら、日頃からの練習がモノを言うだろう。
いちばん重要なことは、実際に試合でゴールを決めるためにどんな練習をしてきたのか?ということではないだろうか。
これを人生に当てはめるなら、実際に幸福な人生を送るためにどんなことをしてきたのか?ということの方が大事なのではないだろうか。
正しいことを言うことではなく・・・
ところが、いつの間にか世の中的に「正しいことを言うこと」の方が尊重されるようになってしまった。
だから大きな声で正しいことを言う人ばかりがクローズ・アップされ、大事にされるような世の中になってしまった。
それはちょっとおかしいのではないだろうか。
こういう言い方は語弊があるのかもしれないが、正しいことを言うだけだったら誰でもできる。
僕だって言える。
だって世間一般的に「正しい」とされてることを言うだけでいいんだから。
でも、本当に大切なことって正しいことを言うことなのだろうか?
本当に大切なことって、もっと他にあるのではないだろうか?
これは教育に置き換えて考えることもできる。
子どもの教育に『正解』ってあるのだろうか。
「こういう教育をすれば絶対に幸せな人生を歩める」という教育って存在するのだろうか。
僕はそんなものはないと思っている。
自分の信念に基づいてその頃に熱心に何かを教えるのは構わない。
だけど、心のどこかに「これは100%正しいわけじゃないかもしれない」という余白は残しておいてほしい。
その余白が子どもたちの救いになる!

ハルキ
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「うまくいく方法」は自分で発見するしかない
グローバル情報化社会が到来し、旧態依然としたものが次々と解体を余儀なくされてる現状の中で、
いい大学に行って、いい会社に入って、定年まで真面目に勤め上げなさい!
と子どもたちに教えることは果たして本当に『正しいこと』なのだろうか。
その教えがまったくの間違いだということが判明したとき、いったい誰が責任を取るのだろうか。
正解を信じてついてきた純粋無垢な子どもたちは、いったいどうなるのだろうか。
『ど正論』を実行することと、幸せな人生を生きることはまったく別の話だということをぜひおぼえておこう!
正しいことだけしかやってこなかった。
だけど、不幸せな人生だった・・・
_____そんなことにもなり得るのだ。
そして実際、そういう人生を歩んでいる人はゴマンといる。
それはきっと『正解』にばかりこだわり過ぎた結果だと思う。
それは誰かにとっては正解だったかもしれないけれど、自分にとっては正解ではないかもしれないのだ。
「正解か? 不正解か?」の発想の元で生まれたものには十分に注意する必要があると僕は思っている。
言ってる本人は「これぞ正解だ!」と確信しているかもしれないが、それはどこまで行っても『自分にとっては・・・』という枕詞がつくことなのだ。
それを誰かに当てはめようとしてもうまくいかないこともあるのだ。
人間はコンピューター・プログラミングとは違うのだ。
その人その人には「特性」というものがあり、「個性」というものがあるのだ。
ウォーレン・バフェットの投資法は、ウォーレン・バフェットにとっては正解だった。
フロイトの精神分析は、フロイトにとっては正解だった。
イチローのバッティング・スタイルは、イチローにとっては正解だった。
Aさんで試してみてうまくいったからって、それをBさんで試してうまくいくとは限らないのだ。
また、それをマネしたからって必ずしもうまくいくとも限らないのだ。
僕たちにできることはただひとつ!

ハルキ
養老孟司さんはこんな言葉を残しています。
「個性」なんていうのは初めから与えられているものであって、それ以上のものでもなければ、それ以下のものでもない。
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