【ネットとは「ほどよい距離感」が大切!】 情報化社会を幸せに生きるために僕が心がけているコト
インターネットが普及し ほとんどの人がスマホやパソコンを持つ時代になった。
そしてインターネットからたくさんの情報を得て、それを人生の指針にする人が増えた。
おそらくもうこの流れは止められないだろう。
これからますます多くの人はインターネットから情報を得てゆくようになるだろう・・・
人間はより便利なものに惹かれてゆくもの。
多くの人が自分の求めている答え(=結果)を瞬時に提示してくれるインターネットに引き寄せられてゆくのは当然のことだ。
より便利に!
よりスピーディーに!
より効率よく!
そういった意味では新聞や本といった活字メディアは、「いちいちめんどくさい!」ということになってゆくのかもしれない。
めんどうなものよりも便利なものの方が支持される・・・・これはごく自然なことだ。
そのことを嘆いていても仕方がない。
いまさらインターネットがなかった時代に戻れるわけでもない。
ただ『情報を得る手段をネットだけに頼ることの弊害』についても知っておいた方がいい。
物事には必ず良い面と悪い面があるのだ。
インターネットだって純度100%にポジティブなものだらけではない。
そこには必ずダークサイドがある・・・
僕は人々が情報のほとんどをネットに依存するようになったら、かなり人間が生きにくい社会がやってくるのではないかと危惧している。
不自然な社会。
ナチュラルじゃない社会。
それはきっと『非常に疲れる社会』だろう。
世の中が便利になればなるほど、それと同じくらい人々は疲労してゆくと思っている。
やっぱり不自然な環境に身を置いていると人は疲れるものだ。
リラックスできないところに長くいると、居心地も悪くなる。
やっぱり人はどうしても「自然に生きたい!」と思ってしまう生き物なのだ。
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コミュ障と情報化社会との関係性について
『コミュ障』という言葉を耳にするようになってもう何年にもなる。
人とコミュニケーションをとるのが苦手
人と関わるのが得意ではない
なるべくなら一人でいたい
etc・・・
こういった傾向を持つ人が増えているらしい。
でもそういう人が増えるのはちっとも不思議な話ではないと僕は思っている。
スマホやパソコンにばかり向き合っていると、他者との関係性が希薄になっていっても当然だ。
誰かと喋ったり、関わったりする物理的な時間が減るということは、当然のことながら人とコミュニケーションする力も低下してゆく。
ボールに触る機会が少なければ、当然のことながらバスケは上手にならない。
バスケが上手くなりたかったら、ボールに触れる物理的な時間を増やすしかない。
コミュ障という言葉が言葉が誕生した背景にあるのは僕は情報化社会があると思っている。
それは人と接する時間よりも画面と向き合う時間の方が増えたということなのだ。
「いや、それは違う!」
「SNSは現代のコミュニケーション・ツールだ!」
「フェイス・トゥ・フェイスではないかもしれないが、以前よりも人と接する機会や時間は増えている!」
_____こう言う人も多いだろう。
確かにそれは一理ある。
論理的な意味ではそれは正論なのだろう。
だけど忘れてはいけない事が一つだけある。
それは『人間は機械ではない』ということだ。
人間は工場で作られたものではない。
お母さんのお腹のなかで作られた生命体なのだ。
言ってみれば、人間は自然の一部なのだ。
自然の中に人間も含まれている。
それはロボットや機械、コンピューターなどと根本的に違うことだ。
手をちょっと切っただけで痛みを感じるのも、その切れた箇所から血が滴り落ちるのも僕たちが機械ではないことの証だ。
僕たちがコンピューター・プログラムではないことの証だ。
ところがいつのまにかそういった感覚を忘れてしまった人が増えた。
これも情報化社会の影響だ。
情報化社会というものが到来したことにより、あまりにも物事を合理的に、論理的に、機械的に考える人が増えてしまったのだ。
テクノロジーやインターネットが発展し、 機械にばかり囲まれた生活をしている現代人たち。
そういう環境に身を置いていると、自分のまわりにあるものすべてが機械であるかのように錯覚してしまうのも無理はない。
機械だから当然、コントロールできると考える。
右向け、右!
左向け、左!
すべての物事はこちらの思い通りに動いて然るべきだ!!
_____そんなふうに考える人が増えてもちっとも不思議ではない。
情報化社会とは詰まるところ、そういう社会が到来したということだ。
そういうふうに考える人間が増える社会が到来したということだ。
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情報化社会はストレスを増大させる
でも、よくよく考えてみたらこれはおかしい・・・
僕らのまわりにあるのは機械だけではない。
全体から見れば僕らのまわりにある機械なんてごくわずかなものだ。
ほとんどが『自然』だ!
太陽も、月も、風も、雨も、草花も、樹木も、虫も、子供も、ペットの猫も、恋人も、同僚も、上司も、社長も、etc・・・
みーんな自然だ!!
ところが情報化社会が到来し、「自然に囲まれている」と感じる人が少なくなったように思える。
テクノロジーの存在ばかりがクローズアップされ過ぎた結果だ・・・
その結果、自分も自然の一部だという感覚よりも、自分を(あるいは自分以外の人を)『機械』のように考えてしまう人が増えてきてしまった。
そのことがあちこちでいろいろ問題を引き起こしている。
当たり前の話だが、人間は機械ではない。
だからコントロールすることができない。
どんなに注意したり、怒ったりしても、相手は自分が思った通りには動いてはくれない。
どんなに「ここを直してほしい!」と嘆願したところで、相手はそれを改善してくれるとは限らない。
人間も自然の一部だからだ。
自然は人間の手でコントロールすることはできない。
台風の進路を人間の手で変更することはできない。
テクノロジーの力で干ばつ地域に雨を降らせることもできない。
でもそういった感覚を情報化社会は麻痺させる。
「何でも思い通りになるはずだ!」という万能感を人間に与える。
「何でもコントロールできるはずだ!」と人々を錯覚させる。
でも実際はまったく思い通りにならない。
全然コントロールできない。
そこに巨大なストレスが生じる。
巨大な巨大なストレスだ。
そのストレスが現代人を容赦なく襲う。
今、膨大な数の人がうつ病に苦しんでいる。
家に引きこもって一歩も外へ出られなくなる人も増えている。
普段おとなしかった人がびっくりするような暴力事件を起こしたり、真面目な教師や警察官がワイセツ事件で捕まったり、etc・・・
僕はそこに情報化社会特有のストレスが根底にあると思っている。
あまりにも急速なテクノロジーの発展が人間の心にダメージを与えてしまったのだ。
なぜコミュ障と呼ばれる人がこんなに増えてしまったのか?
僕は何となくその理由がわかる。
こんなに機械だらけの中で生活していたら、自然と上手につきあっていけなくなって当然だ。
人間も自然の一部だ。
人間は機械ではない。
バスケがうまくなりたかったら、いっぱいボールに触れなければならない。
人間という名の自然に触れる機会が圧倒的に減っているのに、どうやって人間と上手にコミュニケーションが取れるだろう!
______僕はこのことはいずれ深刻な問題に発展してゆくと思っている。
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本当の自分は”現実社会にいる自分”以外にない
僕は情報化社会が本格的に到来する 前に思春期を卒業した。
僕が学生だった頃にはAppleもAmazonもGoogleもFacebookもTwitterもなかった。
そのせいもあるのかもしれないが、僕は今の若者ほどコミュ障にはなっていない。
でもそれは誇れることでもなんでもない。
僕だって今の時代に思春期を送っていたら、コミュ障になっていたかもしれない。
SNS がコミュニケーション・ツールであるという主張は間違ってはいないと思う。
だけど SNS 上のコミュニケーションが「機械を通じて行われる」ということだけは隠しようがない事実だ。
スティーブン・スピルバーグが監督した『レディ・プレイヤー1』という映画の主要テーマはまさにそれだった!
あの映画の中でとても印象的なセリフがある。
それは、
「現実だけが“リアル”なんだ」
というセリフだ。
これはなかなか意味深長なセリフだ。
あの映画でも「情報化社会が悪い」とは描いていない。
ネットの世界やテクノロジーが悪いと主張しているわけでもない。
『ほどほどにしようぜ!』とは言っているかもしれないけれど、決して悪者扱いにはしていないのだ。
そこは非常に重要なポイントだ。
僕もまったくそれと同じスタンスだ。
僕だって普段、MacBook Proを使っているし、Twitterアカウントだって持っているのだ。
「情報化社会すべてが悪い!」という極端なことを言うつもりはサラサラない。
しかしながら、『それは現実ではない』という事実だけは踏まえておいた方がいいと思っている。
時々、混同してしまう人が出てくるから・・・
もしかしたらみなさんが 女性だと思ってSNS 上でコミュニケーションを取っている相手は、本当は男性なのかもしれない。
もしかしたらみなさんが若い人だと思って SNS 上でコミュニケーションを取っている相手は、本当は50代のおっさんなのかもしれない。
そのことも『レディ・プレイヤー1』という映画の中で描かれる。
ネット上に存在している自分というのは、どこまで行っても『アバター』でしかないということだ。
じゃあ本当の自分はどこにいるのか?
それは現実世界にいる!
今、このブログを読んでいるみなさんこそが本当の自分なのだ。
じゃあそのアバターを通しておこなわれたコミュニケーションというのは本当のコミュニケーションと言えるのだろうか。
そのコミュニケーションは現実世界でリアルに行われるコミュニケーションとどう違うのだろうか。
現実世界にはいろいろと厄介なことがたくさん起こる。
ムカつくヤツだっていっぱいいるし、価値観の合わない人だっていっぱいいる。
でも僕たちはその現実世界の中で戦っていただければいけないのだ!
いろいろ厄介なこともいっぱいあるけれど、現実世界で悪戦苦闘しているからこそ得られるものというのもたくさんある。
その現実世界での接触から逃げ回っていてはいけないと僕は思う。
それでは世界はまったく広がらない。
どんどん視野の狭い人間になり、つまらない人間になり、つまらない人生を送ることになる。
「現実世界に居場所がないからバーチャルな世界に居場所を見つける」
「現実空間がツライから仮想空間に逃げ込む」
______その気持ちも痛いほどよくわかる。
だけど、やっぱりいつまでも逃げ回って生きてはいけないと思う。
一時避難的に逃げるのはいいけれど、一生逃げ回って生きるのはやっぱり面白くない。
せっかく生まれたんなら、おもしろい人生を生きようじゃないか!
現実世界だけでおもしろいことはいっぱいある。
おもしろい人間だっていっぱいいる。
エキサイティングな出来事にだってたくさん遭遇できる。
そういったものに背を向けて、部屋に引きこもってばかりいたらもったいない!!
もしかしたら、みなさんのことを心の底から愛してくれる人や、認めてくれる人なんかと出会えるかもしれない。
そういう人と出会うことができる人生というのはやっぱり幸せな人生だ。
その幸せな人生を獲得するには、やっぱり現実世界に飛び出していかなければならないのだ。
いろいろ大変なこともあるかもしれないけれど、やっぱりそこで悪戦苦闘するしかないのである。
人間は自然だ。
機械ではない。
自然だから、こちらの思い通りにはならない。
僕たちは自然をコントロールするはできない。
でも、だからと言って自分の思い通りになる機械に囲まれて一生を終えるというのも何だかさびしい・・・
ノイズがあるからおもしろいんじゃないか!
障害があるからエキサイティングなんじゃないか!
きっとノイズがまったくまったくない世界に生きることは逆に多大なストレスをもたらすような気がする。
やっぱり本当の意味でのガッツポーズは現実の世界でしか獲得できないのではないだろうか。
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