内田樹の名言集

内田樹の名言集

 

内田 樹(うちだ たつる、1950年9月30日 – )は、日本のフランス文学者。学位は修士(東京都立大学・1980年、フランス文学専攻)。武道家(合気道家、凱風館館長)、翻訳家、神戸女学院大学名誉教授、京都精華大学人文学部客員教授。

東京大学文学部卒業。東京都立大学大学院人文科学研究科修士課程修了。

内田樹

電力価格が上がったからという理由で日本を去ると公言するような企業は、仮に再び原発事故が起きて、彼らが操業しているエリアが放射性物質で汚染された場合にはどうふるまだろう?

自分たちが強く要請して再稼働させた原発が事故を起こしたのだから、除染のコストはわれわれが一部負担してもいいと言うだろうか?

雇用確保と地域振興と国土再建のためにあえて日本に踏みとどまると言うだろうか?

絶対に言わないと私は思う。

こんな危険な土地で操業できるわけがない。

汚染地の製品が売れるはずがない。

そう言ってさっさと日本列島から出ていくはずである。

 

内田樹

グローバリズムとナショナリズムは矛盾しているように見えるが、実際にはこれは「同じコインの裏表」である。

国際競争力のあるグルーバル企業は「日本経済の旗艦」である。

だから一億心を合わせてその企業活動を支援せねばならない。

そういう話になっている。

 

内田樹

国民は低賃金を受け入れ、地域経済の崩壊を受け入れ、英語の社内公用語化を受け入れ、サービス残業を受け入れ、消費増税を受け入れ、TPPによる農林水産業の壊滅を受け入れ、原発再稼働を受け入れるべき。

グローバル企業を日本経済の旗艦とした場合、そういう話になってくる。

この本質的に反国民的な要求を国民に「飲ませる」ためには「そうしなければ、日本は勝てないのだ」という情緒的な煽りがどうしても必要である。

 

内田樹

私たちの国で今おこなわれていることは、つづめて言えば「日本の国富を各国(特に米国)の超富裕層の個人資産へ移し替えるプロセス」なのである。

現在の政権与党の人たちは、米国の超富裕層に支持されることが政権の延命とドメスティックな威信の保持にたいへん有効であることをよく知っている。

戦後68年の知恵である。

 

内田樹

今、私たちの国では、国民国家の解体を推し進める人たちが政権の要路にあって国政の舵を取っている。

政治家たちも官僚もメディアも、それをぼんやり、なぜかうれしげに見つめている。

 

内田樹

現在の自民党政権はかつての55年体制のときの自民党と(党名が同じだけで)もはやまったく別物であると私は見ている。

かつての自民党は「国民国家内部的」な政党であり、手段の適否は措いて、日本列島から出られない同胞たちを「どうやって食わすか」という政策課題に愚直に取り組んでいた。

 

内田樹

今日の「期待される人物像」であるところの「グローバル人材」とは、「日本列島以外のところで生涯を過ごす」ことも社命なら従うと誓言した代償に内定をもらった若者のことである。

内田樹

国民を危険にさらし、国富を蕩尽し、国際社会に有形無形の敵をつくり、高い確率で国内でのテロリズムを招き寄せるような政策が68年の平和と繁栄を基礎づけた平和憲法よりも「望ましい」と判断する根拠は何か。

 

内田樹

改憲派はそれを「国際社会から侮られてきた」屈辱の経験によって説明する。

「戦争ができる国」になれば、このいわれなき侮りはかき消え、国際社会からは厚い敬意が示されるだろうと予測しているようだ。

 

内田樹

どれほど美辞麗句をまぶしてみても、改憲案には「国家百年」を見通すような広々とした射程はない。

この新しい憲法が独立宣言や人権宣言や、あるいはワイマール憲法や日本国憲法と比べても世界史的な「新しさ」というのは一点しかない。

それはこれが「グルーバル資本主義の流れに棹さして、国民国家の劣化と解体をさらに推し進めること」を目指して起草された世界史上はじめての憲法だということである。

内田樹

今回の参院選では「ねじれの解消」という言葉がメディアで執拗に繰り返された。

それは「ねじれ」が異常事態であり、それはただちに「解消されるべきである」という予断なしでは成り立たない言葉である。

 

内田樹

ねじれ」は二院制の本質であり、ものごとが簡単に決まらないことこそが二院制の「手柄」なのである。

だからもし二院制に「ねじれ」があるせいで、与党発議の法律の採決が効率よく進まないことを端的に「よくないことだ」と言う人は、二院制そのものが不要だと言っているに等しい。

 

内田樹

現在の自民党は派閥が弱体化し、長老の介入が制度的に阻止され、党内闘争が抑圧された「ねじれのない政党」になっている。

公明党、共産党が鉄壁の「一枚岩」の政党であるのはご案内の通りである。

おそらく日本人は今「そういうもの」を求めているのである。

内田樹

なぜ日本人は「自民党」や「共産党」や「公明党」といった統一性の高い組織体に魅力を感じるようになったのか。

それは人々が「スピード」と「効率」と「コストパフォーマンス」を政治に過剰に求めるようになったからだ、というのが私の仮説である。

 

内田樹

私は有権者の時間意識の変化を経済のグローバル化が政治過程に侵入してきたことの必然的帰結だと考えている。

政治過程に企業経営と同じ感覚が持ち込まれたのである。

内田樹

原発の放射性廃棄物の処理コストはどれくらいかかるか試算は不能だが、それを支払うのは孫や子の代なので、それについては考えない。

年金制度は遠からず破綻するが、それで困るのは孫や子の代なので、それについては考えない。

目先の金がなにより大事なのだ。

 

内田樹

経済最優先と参院選では候補者たちは誰もがそう言い立てたが、それは平たく言えば「未来の豊かさより、今の金」ということである。

今ここで干上がったら、未来もクソもないという破れかぶれの本音である。

日本人が未来の見通しについてここまでシニカルになったのは歴史上はじめてのことである。

 

内田樹

結果的に労働者が手に入れたのは「働き方の自由」ではなく、「同一労働・最低賃金」のルールだったのである。

だから経営者たちはあれほどまでに非正規雇用の拡大に固執したのである。

彼らのロジックは「日本のような高い人件費では、コスト削減の国際競争に勝てない」というものである。

それは裏側から言えば、日本の労働者の雇用条件を切り下げることでしか、日本に製造拠点を置くグローバル企業に勝ち目はないということである。

内田樹

労働者が絶対的に貧困化すれば、遠からず内需は壊滅するが、とりあえずそれまでの間は人件費削減で浮いた分は企業の収益にカウントされる。

先のことは考えない、というのが資本主義の作法であり、国民国家の将来のことなど配慮しないというのがグローバル企業の常識であるなら、それでよいのである。

 

内田樹

日本の財界人が国際競争に勝つためには採用している最優先事項は「人件費を限りなく切り下げること」である。

人件費さえ切り下げられるなら、海外に工場をつくるより、国内で操業する方がずっと利益が大きい。

労働者のモラルは高いし、社会的インフラは整備されているし、怪しげな党官僚が賄賂をせびることもないし、テロや内乱の不安もない。

できることなら、海外ではなくずっと日本にいたい。

そこで日本の経営者たちは「こんなに人件費が高くては生産拠点を国外に移すしかない」という言葉をことあるごとにメディアを通じて「国内向け」アナウンスすることにしたのである。

 

内田樹

今、起ころうとしている「変化」はグローバル企業の収益の増大と彼らのいわゆる「国際競争力」の向上に資するためのものであって、労働者の利益に還元されるものではないことはあらかじめ告げておかなければならない。

この労働者の組織的連帯を破壊してゆく過程で「愛国主義」が功利的に利用されているのだが・・・

 

内田樹

当たり前のことを確認するけれど、自治体行政はビジネスではなく、自治体の首長は経営者ではない。

にもかかわらず、自治体の首長が予算執行を「経営者感覚」で行なっていることを誰も「変だ」と言わない。

 

内田樹

ネット上では相手を傷つける能力、相手を沈黙に追い込む能力が、ほとんどそれだけが競われています。

最も少ない言葉で最も効果的に他者を傷つけることのできる人間がネット論壇では英雄視される。

 

内田樹

私は正しい、お前は間違っているとただ棒読みのように繰り返すだけの言葉遣いは、何かを壊すことができますけれど何かを想像することはできません。

内田樹

長く生きてきてわかったことも一つは、「現実を変えよう」と叫んでいる時に自分がものを壊しているのか、作り出しているのかを吟味する習慣を持たない人は、ほとんどの場合壊すことしかしないということです。

そして常識的に考えればわかることですが、壊すだけで作り出すことを誰もしなければ、いずれ世の中の全ては破壊しつくされて、もう壊すものさえなくなるということです。

内田樹

全能感を求める人はもの創ることを嫌います。

創造すると、自分がどの程度の人間であるかがあからさまに暴露されてしまうからです。

だから全能感を優先的に求めるものは、自分に力があることを誇示したがるものは、何も作品を示さず、他人の作り出したものに無慈悲な批評を下してゆく生き方を選ぶようになります。

自分の正味の実力に自信がない人間ほど攻撃的になり、その批評は残忍なものになるのはそのせいです。

 

内田樹

呪いがこれほどまでに瀰漫(びまん)したのは人々が自尊感情を満たされることを過剰に求め始めたからです。

若者に限らず現代日本人の多くは、自己評価と外部評価の落差が次第に拡大しつつあります。

「本当の自分はこんなところで、こんな連中と、こんな仕事をしているようなレベルの人間ではないのだ」という妄想的な自己評価を平然と公言する人が増えました。

内田樹

高い自己評価と低い外部評価の落差を埋めるためには、普通の人は外部評価を高めるために努力します。

けれども中には外部評価を高める努力とは違う形で高い自己評価を維持しようと試みる人たちがいます。

例えば、引きこもりというのは自分に対して低い評価を与える外部を遮断して、評価されない立場に逃げ込むというソリューションです。

転職や離職の繰り返しや一時流行した自分探しの旅も自己評価と釣り合うような格付けをしてくれる外部がこの世界のどこかにあるはずだ、というあまり根拠のない信憑に導かれてのことです。

内田樹

元々学校教育の機能の一つは子供達の無根拠に高い自己評価を適切に下方修正し、身の丈にあった生活設計やキャリアに軟着陸させることになりました。

身の程を知れということです。

でも現在の教育現場では君たちには無限の可能性があるという激励は許容されても、身の程を知れ、分をわきまえろというアナウンスに対しては強い抵抗を覚悟しなければなりません。

内田樹

子供達の過度に肥大した自尊感情を下方修正し、適切な自己評価を受け入れさせることは、実際には子供たちの潜在的な能力の快感を支援するのと同じくらい重要な教育的課題なのです。

内田樹

子供たちがその無限の可能性を開花させるためには、どうしたって自分がどれほどの無知で非力であるかを知る必要があります。

自分たちがどれほど小さな箱に閉じ込められているのかに気づかない子供が日の光を浴びて空気をいっぱいにして開花することはありません。

 

内田樹

教育の現場では君には無限の可能性があるという言明と君には有限の資源しか与えられていないという言明は同時に告げなければならない。

矛盾した言明を同時に告げられることではじめて子供たちのうちで『学び』は起動するのです。

 

内田樹

安倍首相はこの国を「美しい国」へと入れ替えようとしている。

『戦後レジームからの脱却』という彼が掲げたスローガンは、自尊感情の不充足に苦しみ、ついには60年余にわたって日本を経済的繁栄と平和のうちに保持してきたある種の成熟に達した政治体制(そしてそのほとんどの期間、彼をその後、総裁に選出することになる当の政党が政権与党であった政治体制)を破壊したいと望んだという点において、僕たちの社会に取り憑いた自己幻想の病根の深さを思い知らせます。

 

内田樹

自分もその頂点に押し上げた政治システムそのものを破壊しようとしたこの政治家が灼けつくような思いで求めていたのは「さらなる全能感」であり、彼に欠けていたのは公共的なシステムを作り上げ、維持するということがどれほど苦労の多い、報われることの少ない仕事であるかという常識だったと思います。

内田樹

システムというのは古いシステムを壊した後に政令一本でポンと Brand new な形で出現するものではありません。

新しいシステムを構築するためには、古いシステムを破壊する努力の数百倍以上の努力が要求されます。

安倍晋三は壊すことには極めて熱心な政治家でしたけれど、新しいものを作り上げる努力、とりわけ彼の政策を理解しようとしない人達、それにあからさまに反対する人たちを情理を尽くして説得し、合意形成に持ち込むということについてはほとんど興味を示しませんでした。

内田樹

現代人が自我の中心に置いている「自分らしさ」というのは、実はある種の欠如感、承認要求なのです。

「私はこんなところにいる人間ではない」

「私に対する評価はこんな低いものであって良いはずがない」

「私の横にいるべきパートナーはこんなレベルのものであるはずがない」

というような自分の正味の現実に対する身悶えするような違和感、乖離感、不充足感、それが「自分らしさ」の実体です。

内田樹

「自分らしさ」というのは「今の自分はほんとうの自分ではない」という否定形でしか存在しません。

ですから、彼らが「自分探し」というときに探しているのは実は「自分」ではない。

彼らが探しているのは、彼らの欠如感、不充足感を充してくれるような他者です。

内田樹

自分探しをしている人は、自分を探しているのではなくて、「自分」を支えてくれる土台、壁、屋根を探している。

土台や壁や屋根が揃えば「そこの住人」としてのアイデンティティーが安定的に基礎づけられると考えている。

どこかに行けば自分のための壁や屋根があるんじゃないかと思って、旅をしたり、留学したり、離職したり、パートナーを次々に変えたりする。

自分にジャストフィットする「容れ物」を探している。